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後醍醐天皇のお迎え・船上山の戦い

元弘2年(1332年)3月、北条高時が後醍醐天皇を隠岐へ遷し奉り、加えて隠岐の判官佐々木清高に御生命を落とし奉れと密命した。これをお聞きになった帝は、長年公の弟泰長を召して、兄(長年公)と義兵を挙げ自分を護って要害の地に還せと仰せられた。そこで、泰長は諸準備のため急ぎ出雲へ下ったが事破れて自害した。
翌元弘3年(1333年)2月23日、帝はひそかに行宮を出て、千波の港から漁船で逃れ、28日伯耆の港に入り、長年公の邸に勅使を立てて救いを乞われた。長年公は感激して直ちに一族郎党を駆り集め、帝を船上山に迎え奉った。急のこととて自家の糧米五千石を山上に運ばせ、残りを焼き捨てた。賊軍に利用されるのを恐れたのである。
翌29日に賊軍は追手、搦手の二手に分かれて山を攻めたが、官軍の善戦に攻めあぐねているうちに、近郷近国の武士もはせ参じて賊軍を追い払った。 
長高(長年公)を左衛門尉に補し名も長年と改めさせられ、3月3日には伯耆守に任じて本国?を賜った。また15日夜、長年公をお召しになり、自分が今度の難を逃れたのは海上であり、しかもこの地は船上山、自分を船に例えれば
汝は水「三心相応の謂れあり船を以て吉事とす」とお言葉があり、家の紋章を改めよと帆懸舟の紋章を賜い、併せて御文と
  忘れめや よるべも波の荒磯を
   御舟の上に とめし心を
の御歌を下された。
 帝は伯耆御着船以来、約70日の間船上山にお留まりになっていたが、京都の争乱も静まったので、5月25日船上山をお立ちになって山陰道を東へ、書写山などを経て京都に遷幸されたが道中は長年公の一族が御守護申し上げた。